学に恋して 〜アカデミズムの扉を開く〜

勉強が趣味の一橋大学経済学部1年生が、日々様々な人から学んだことを綴ります。

正義の女神Part2

 

こんにちは。ゆでたまごです。時が経つのは早く、もうGW真っ只中です。遊びに行くもよし、休むのもよし。同じように、学びを深めるのも良しですよ~

 

前回ご紹介した「正義の女神の目隠しは必要か?」というクイズについて考えていただけたでしょうか。

 

まずは女神様の目隠しについて説明いたしますと、ウィキペディアでは、”目隠しは彼女が前に立つ者の顔を見ないことを示し、法は貧富や権力の有無に関わらず、万人に等しく適用される「法の下の平等」の法理念を表す。”

と紹介されています。

 

 『正義論』を著したジョン・ロールズジョン・ボードリー・ロールズ(John Bordley Rawls、1921年2月21日 - 2002年11月24日)は、目隠し賛成派。彼は、物事を判断するときには、「無知のヴェール」をかけるべきだと言っています。「無知のヴェール」とは、肌の色や、素性、言語などのバックグラウンドを、知っていながらあえて隠すヴェールのこと。刑事裁判において被告人が囚人服で召喚されると、有罪判決を下され易いという話は、耳にしたことがありますよね。それは、囚人服=悪人というイメージが私達に植え付けられているため、本人の人格や裁判の内容とは無関係に有罪であるような気がしてしまうからなんです。

この考え方に関連して、教授は英国で博士号を授与される時、なぜ学生は真っ黒のガウンを着るのかについて話してくれました。多様化が進む現在、個性を全て包み隠して画一化してしまうガウンに対して悪い印象を持っていた教授は、英国の知人にこのことを質問したようです。なぜ学位授与の時、真っ黒のガウンを着る必要があるのか、と。すると、相手は

「違うんだよ。個性をなくし画一化することが目的ではないんだよ。ガウンは、個人的特徴を離れてpublic:公共的な視点から学位を与えるということなんだよ。ガウンの中に来ている私服がきらびやかで高級な服であっても、みすぼらしいぼろ布であっても、それは学問の場においては関係ない。身分の違いには全く関係なく、ガウンを着ている者は皆平等に学位をえる資格があるという意味なんだよ。」

と言ったそうです。教授はこの説明に感銘を受け、そして私たちに話してくれました。

 

このようにして見てみると、肌の色、素性、言語、貧富の差といった個人的特徴は、純粋に事実をみつめ、真実をとらえることの大きな足かせになりそうです。手に入れた情報を元に判断する私達は、その情報から多かれ少なかれ先入観や偏見といったものを形成します。そのようにゆがんだ色眼鏡でこの世界を見るよりは、無知のヴェールをかけて判断したほうがいいのかもしれません。古代ギリシャ、あっぱれ。

それでは、正義の女神に目隠しをかけることが正解で、めでたしめでたし、、、、?

え、本当にいいのでしょうか?今まで私がお話したことを参考にしても忘れてもよし。

ちょっと考えてみてください。勘のいい人は先日早稲田に来たあの方を想起するかもしれません。

次回に続く

 

PS  

今回の記事にpublic:公共的という言葉が出てきましたが、これに関連した記事をご紹介します。

http://www.himalayahouse.co.jp/smart/koukyousei.html

公共性についてかなり詳しく説明されていますので、ご覧になってみて下さい。