学に恋して 〜アカデミズムの扉を開く〜

勉強が趣味の一橋大学経済学部1年生が、日々様々な人から学んだことを綴ります。

ハッピー度を測る? ~功利主義とはPart1~

こんにちは。ゆでたまごです。

試験期間中だったので投稿が遅れてしましました。

先日、ついに経済思想のテストがありました。一橋大学は4学期制なので、5月で春学期が終わります。経済思想は春学期だけの科目なので、たったの2か月弱ですべてが終わってしまいました。

大学に入学して、もう3か月経ちました。入学式の日は正門に「一橋大学 入学式」と書かれているのを見て、逆に東大には入れないことを強く感じてしまい暗い気分でした。

ですが、新歓イベントやサークル活動でいろいろな人と知り合い、また、理系に進んでいたら深く学ぶことはなかったかもしれない経済学にハマり、東大に落ちた直後に想像していたよりはずっと充実した生活を送っています。人生は何があるかわからないし、自分が考えているより現実のほうが複雑で面白いな~としみじみしてしまいます。

 

ということで、経済哲学を授業で学ぶことはもうなくなってしまいました。ですが、今までの授業で習った内容のうち、これは書きたいぞーと思ったものはいくつか投稿させていただきたいと思います。

そこで、今回は「功利主義」を扱います。

功利主義」???

 経済学を学ぶまで、私はこの言葉を知りませんでした。ですが、経済学の先生はみんなこの「功利主義」について教えたがります。なぜなんでしょうか。それは、この功利主義こそが、「だから経済学は非人道的な悪魔の学問なんだよ」と一部の人に言われてしまう原因の一つでもあるからなんです。

(実際に面と向かってこんな悪口を聞いたことはありません。けど、高校3年生の時、現代文で「私は経済学者です。そして経済学者は悪魔の一員です。」的な論説文を読んで、「経済学者やばいな。私理系だし関係ないけど。」と思ったのを覚えています。笑)

 

功利主義を最初に生み出したのは

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ジェレミ・ベンサム

Jeremy Bentham1748年2月15日 - 1832年6月6日[1])は、イギリス哲学者経済学者法学者功利主義創始者として有名である。(ウィキペディアより)

です。彼はマシーンのように人を捉えていて、功利主義は「個人的快楽計算が可能」だというユニークな考えを元にしています。

個人的快楽計算が可能???どういうことでしょうか。

ベンサムは人間の持つ感情のうち、「快楽」と「苦痛」をありったけリストアップしました。感覚、富、名声、権力exc...これらは快楽の例です。逆に欠乏、感覚、不器用、悪意exc...これらは苦痛の例です。そして、個人一人一人にハッピー度を測る快楽バロメーターがついているとします。

このバロメーターを使って、ベンサムは2つの選択肢のうちどちらが社会にとってよりハッピーなのかを計算する方法を思いついたのです。

方法は簡単。100人でできている社会があって、そこでXとYという2つの選択肢からどちらかを選ぶとします。どちらのほうがみんなをハッピーにするのか考えてみましょう。

①まずXを選んだ時のAさんのハッピー度、Bさんのハッピー度、・・・を100人目まで測って、それらを全部足し合わせます。これが社会全体の「Xによるハッピー度」です。

②次にYを選んだ時も同じように、Aさんのハッピー度、Bさんのハッピー度、・・・を100人目まで測って、それらを全部足し合わせます。これが社会全体の「Yによるハッピー度」です。

③最後に、「Xによるハッピー度」と「Yによるハッピー度」を大きさを比べて、その度合いが大きい方を「より社会をハッピーにする選択」だとします。

ベンサム流にのっとれば、たったの3ステップで、よりみんなをハッピーにする方を計算から導くことができてしまいました。

 

この簡単さから、ベンサム功利主義は広く経済界で知られる考えとなりました。

 

ですが、この考え方で何となく違和感を覚えた方もいらっしゃるかもしれません。実際、功利主義は批判されることも多いです。

ここでひと段落ついたので、次回は功利主義の欠点とその改善版について書きたいと思います。続きをお待ちください。

 

ジャジャーン!ジャン=ジャック・ルソーPart2

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こんにちは。ゆでたまごです。明後日はついに経済思想のテストです。私が今までここに書いてきた内容が試験に出ますように。

前回は、今ここにいるフツーの「私達」では、いい法律を作れない1つ目の理由をお話ししました。人間はナルシストだから、社会全体が良くなることよりも自分にとって都合のいいルールを作りたがる。それがダメとバッサリとルソーに批判されてしまい、耳が痛いです。

それでは、「われわれ(事実)」がいい法律を作るための、2つ目の条件とは何でしょうか?もしあなたが新しいルールを作ることになったら、どうするか考えてみてください。現状では何か良くないところがあって、それを改善するためにまずは何をするでしょうか?多くの人は、そのときすでにあるルールを見て、それらの悪いところについて考えたり、それらを参考にして新しいルールを作ろうとするのではないでしょうか。やっぱり今あるものを手掛かりにしないと、新しいものを作るのは大変ですよね。

 

ですが、ルソーはこの「手がかり」をかなーり批判的に考えました。新しいルールを作るとき、今あるルールを手掛かりにすること。それは言い換えれば、今あるルールの枠組みで考えているということです。無意識に今ある法律や規則が入り込み、「われわれ(事実)」を規定している、と授業では習いました。その当時のルールや価値観、社会制度などは、私達が何かをする上で基礎となる必要不可欠なものであると同時に、社会全体に大きな傘をかけるようにして影響を及ぼし続けています。

そんな状態で物事を考えても、本当に新しいものなんてできるわけないでしょ?っていうのがルソーの主張です。たしかに、どこかで何からも束縛されない純真無垢な私であれば、革新的でNewなルールを思いつけるかもしれませんね。

 

そして、もしも個人個人がナルシストではなくなって、今あるルールから解放されたら、そのとき「われわれ(事実)」は「われわれ(理論)」にレベルアップします。テッテレー!  ルソーは、この時初めて「本当に」理想的な法律を作ることができるよ~としめています。

以上の内容は、言われれば突拍子のない話ではないと思うんですけど、自分で考えだして言葉にするって半端じゃなく大変だと思います。本当にルソーは考えたんだろうなぁ~ って感じです。

 

ですが、ルソーの理想って高いですよね。実際私達が自分の利益オンリーではなく社会の利益について考えることなんてできるのか?あと、今ある規則から解放されるなんていったい可能なのか?やっぱり「理想」を「現実」に反映するのは並大抵のことではないと思います。

なので、ルソーは250年も昔の人なのに、今も多くの人を動かし続けています。ルソーの夢を叶えてやろう(?)とがんばっている学者は世界中にたくさんいるのではないでしょうか。

ルソー愛好家や研究者でないとしても、この記事を最後まで読んで下さった皆様の脳裏に、普段のふとした瞬間で「自分だけの利益(=エゴ)」や「無意識のうちに自分を規定しているもの」が浮かんでくれれば幸いです。

今回この記事を書くのに参考にしたURLを下に貼ります。面白いので読んでみてください。

公共性について:身近な話題から、ややこしい話を直感的に説明してくれています。

ジャジャーン!ジャン=ジャック・ルソーPart1

こんにちは。ゆでたまごです。前回の投稿は答えが分からないまま尻切れトンボになってしまい、すみません。最近どの授業もじわりじわりと難しくなってきていて、結構大変です。大学生って遊ぶ時期じゃないの!?とか思ってたんですけど、現実は甘くないですね(笑)。

 

先日は、ルソーについて習いました。ルソーって誰だっけ?と思ったそこのあなた!

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仲間です。やったあ)^o^( ルソーという単語を最後に聞いたのは高1の現代社会の授業です。果てしなく遠い記憶を思い出そうとしても全く意味はなく、教授がルソーについてとくとくと語りだしているさなかに必死にネットで検索していた私。それによると、

「ジャン=ジャック・ルソーは、今から約250年前にフランスで活躍した思想家です。『社会契約論』や『エミール』など代表的な書物を出版し、後のフランス革命に大きく影響を与えた人物です。」(出典:https://hitotoshisou.jp/qa-rousseau/

なるほどなるほど。フランス革命に影響を与えた人ですか。そういえば、『ベルサイユのばら』にも登場した気がします。・・・古いですかね?(笑) ちなみに、童謡『むすんで ひらいて』の作者でもあるそうです。多彩ですね。

ルソーは、著作も多く、多岐にわたってその才能を発揮していますけれども、当時の社会に対する批判はかなりどぎついです。Controversialなことも言っていると思います。ですが、それこそ社会に”革命”を起こした人ですから、ルソーの意見に賛成か反対か、いいのか悪いのか、それを考えるのもとても大事なことなんですけれども、実際に当時の世界を揺り動かした、半端じゃない強さのパワーを感じて頂けたらと思います。

(ちなみに、Controversialなんてカッコつけた言葉を使ってみました。教授が英単語を発音よく織り交ぜてくるのがカッコ良かったので、ちょっと真似しちゃいました。あと、経済について青二才の私がしそうについてあれこれ言うのは怖すぎるので、全力の逃げです。すみません。)

教授の、ルソーの『社会契約論』についての解説を書き取ったメモを参考にお話しします。正確じゃないところも多いかと思いますが、あればコメントしていただきたいです。

 

ルソーは、当時の社会をよりよくするために、新しい法律を作りたい!と思いました。その時に、「じゃあどうしたら”本当に”いい法律を作れるんだろうか?」ルソーは考えて考えて考え抜きました。そしてついにルソー流の答えを導き出したのです。

ここに、今これを読んでくれているあなたと、私と、そしてみんながいます。ありのままのみーんなをひっくるめて、「事実としてのわれわれ」とか、「われわれ(事実)」と呼びます。この「われわれ(事実)」は次の2つの理由から、良い法律を作ることができません。

1つ目は、私たちはナルシストだからです。おお、いきなり来た。ルソーがTwitter始めたら大炎上ですね。やっぱ人間だから、自分にとって一番都合のいい決まりを作ってほしいものです。にんげんだもの(みつを)。 ですが、それではダメよーとルソーは言います。色眼鏡を通して社会を見ても、本物の姿は見ることができないようですね。

 

けっこう文字数がいってしまったので残りは次回にしたいと思います。「われわれ(事実)」では、いい法律を作ることができない2つ目の理由とは何でしょうか。そして、その2つを克服できたら、「われわれ(事実)」は何になるのでしょうか?少なくとも「すげぇやつ」になることは確定です(笑)。お楽しみに。

次回に続く

フルートをだれにあげる?Part1

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こんにちは。ゆでたまごです。先日経済学のテストがあったので、投稿が遅れてしまいました。一橋大学では経済学部=不真面目って感じで、普段の授業では余裕で席に座れるんですけど、今回は入学後初めてのテストだからなのか250人くらいの大教室がぎゅうぎゅうでした(笑)。テストは予想より難しくて、私含め皆(やばいぞこれは)って顔してました。ちなみに教授は「みなさんできましたか?(ニヤニヤ)」って言ってましたね。 してやられたー

 

同じ日にまた経済思想の授業がありました。105分の授業はそれはそれは長くて、コックリコックリしながら聞いていたのですが、後半あたりで教授が言いました。

「ここにフルートが1本と、A,B,Cの3人の子供がいます。このうち1人だけにフルートをあげます。」

また来たー、唐突な例。お偉い経済学者が考えたらしいんですが、なんか時代が違うな感満載の話ですね。とりあえず言われたシチュエーションで一緒に話に付き合ってください(笑)。

「ここにフルートが1本と、A,B,Cの3人の子供がいます。このうち1人だけにフルートをあげます。A君はフルートを作った子供です。B君はフルートをふくのが1番上手な子供です。C君はフルートを作ったわけでもなく吹くのが1番上手なわけでもありませんが、ほかに何の遊び道具も持っていません。さあ、あなたならA君、B君、C君のうちだれにフルートをあげますか?」

なんという奇妙な状況なのでしょうか。3人でかわりばんこで使うとか、じゃんけんで決めるとか、そういうことをしてはだめなようです。そして、経済学で1番大事な考え方は「合理性」です。何かを考えるとき、「一番合理的な選択」を見つけるゲームのようなものです。ですから、今回の「フルート問題」についても、なんとなーくで考えていいんですけど、自分の答えがなぜ合理的かをこじつけると一気に経済わかってる人っぽくなります、多分。

みなさんがもしフルートをあげる側だったら、A,B,Cどの子にフルートをあげますか?暇なときにちょっと考えてみてください。あと、もう少し考えてみたくなったら、自分があげようと思った子じゃない2人にフルートをあげることのできる方法を考えてみてください。

次回に続く

P.S  大変申し訳ないのですが、この記事を投稿した後、私の解釈が間違っていることが発覚してしまいました。何度考えても分からないので、答えがわかるまで続きを書けません。少々お待ち下さい。

姉妹喧嘩の顛末Part 2

みなさんこんにちは。ゆでたまごです。

最近雨が多いですね。私は昨日も今日も天気予報を見なかったので帰る時間にちょうど雨でした☔️  雨って冷たいですね。

そういえば冷たい姉に対抗する熱い妹の話の途中でした。この後どうなったんだろう?って気になってる人がいたら嬉しい限りです。どこにでも居る普通の小学6年生が理解した文法とはいかに・・・?

 

妹は『ちびまる子ちゃんの文法教室』を読んで勉強し、その内容をノートにまとめたようです。そのノートを見ながら私に説明してくれました。

妹:「お姉ちゃん。単文複文重文の勉強したよ。単文は、文の中に主語、述語が一回ずつしか出てこない文。複文は、どちらかの主語、述語の組み合わせが対等な関係・・・あ、なんでもない。どちらかの主語、述語の組み合わせが修飾語になってる、いやなっている文。修飾部分を取ると、単文になる文。重文は、主語、述語が二回以上出てくる文。どちらかが中心ていうわけではなくて、内容が釣り合っている。おしまいです。」

 

私:「なるほどなるほど。がんばって写したね(笑)。例文とかってないの?」

 

妹:「ありまーす。単文は、

花が、咲いた。

複文は、

私が植えた花が咲いた。

重文は、

花が咲き、鳥が鳴く。  おわり。」

 

私:「うん。もうちょっと説明してよ。」

 

妹:「えー、もうない。あ、これならあるかも。主語、述語2回以上出てくる文は、複文か重文のどちらかです。まずは、主語と述語を見つけましょう。それぞれの文の組み立てを覚えるには、主語と述語の関係を見ることが大事なんです(棒読み)。」

 

私:「はいはい。まるまる写したね。」

 

妹:「はい。ちびまる子ちゃんだけに。」

 

てな感じで、妹の学習発表は終わりました。実際私も、単文複文重文のことはほとんど知らなかったので、いい勉強になりました。後々、文とは、読点(。)で終わる、意味が通るひとかたまりのことだと知りました。それをもとにすると、単文は1文の中に主語と述語がそれぞれ1回ずつしか出てこない、一番シンプルな文ですね。先ほどの例文であれば、

    主語:花が  述語:咲いた

であることがすぐに分かります。シンプルなので言いたいことも分かりやすいですが、飾りが少なく面白みが足りない気もします。

複文は、文字通りちょっと複雑な文です。先ほどの例文「私が植えた花が咲いた。」であれば、主語と述語は変わらないのですが、「私が植えた」花 というように、花という言葉を「私が、植えた。」という単文が修飾しています。さっきの単文よりちょっとオシャレになりましたが、たくさんある 主語と述語の組み合わせ のうち、どれがどこを修飾していてどれがメインの主語・述語なのかが分かりづらくなってしまいました。

重文は、複文とは違ってメインの主語と述語の組み合わせというものはありません。「花が咲き、鳥が鳴く。」の文であれば、「花が咲く。」という文と「鳥が鳴く。」という文の二つが並列の関係にあります。

 

言葉足らずの説明でしたが、ここまでお読みいただきありがとうございます。いつもの調子で始まった姉妹喧嘩が、こんな風に展開するとは思ってもみませんでした。普段は妹に対しては私のほうが物知りだと思って偉そうにしていましたが、今回の「単文複文重文」については、私は全然知りませんでした。今もまだわからないところが多い状態で、ぼけっとした解説になってしまいました。私のうろたえている姿を見て、妹もずいぶんご満悦でした(笑)。まだまだ反撃は続きそうです。また何かあれば書かせてもらいます。

まだたンぶん十分な内容を含ブんではいないと思いますが、ここらへんで一区切りつけたいと思います。ありがとうございました。

姉妹喧嘩の顛末Part1

 

みなさんこんにちは。ゆでたまごです。

前回までの連載はちょっとディープな経済思想ネタだったので、今回は私の日常の出来事をご紹介させて頂きます。私は7歳下の妹がいるのですが、今小6ということもあり思春期スタート!なお年頃なんですよ。それで、最近私のいないところで母に私への不満をぶつけているらしい、と母から言われまして。受験生時代から妹にはずいぶんわがままを通していたのですが、あ、私が(笑)。そのとき、受験勉強を通して覚えた論法を駆使してまるで正しいことを言っているかのように妹を丸め込んできたんですね。(あー、知識の乱用ですね。いやなお姉ちゃんやー。)

妹が、その理不尽さに気づいてしまったらしい・・・。(゜゜)アワアワ

私としては、「ついにバレたか。これはマズいぞ。」(←心の声)という感じなのですが、まあ口は勝手に動くもので、「言い返したかったら、きちんと勉強して反撃してごらんなさいよ!」とかなんとか出まかせを言い、超絶不満顔の妹をいきなり言いくるめました。

もう妹は何も言ってこないので、ほっと一安心していたのですが・・・

 

「お姉ちゃん。単文複文重文の勉強したよ」

 

なぬぅ!?

 

どうやら妹は母に相談し、私に言い返すためにまずは日本語文法を学びなおすという戦略を立てたようです。

たしかに妹の日本語は主語と述語の対応が間違っていることが多かったんです。例えば、「今日ね、友達が私に『OOちゃんのアクセサリーかわいいね』って言われたんだよ!」とか、しょっちゅう言ってましたね。この文の主語と述語を抜き出すと、

「友達が」 「言われた」なんか不自然ですね。動作をしたのは友達で、されたのは妹です。文の最初では、「友達」が主語になっているので、文の最後では、「言った」にすればいい感じの日本語になります。もしくは、文の最初を「私が」にして、文の最後をそのまま「言われた」にしても、自然な受け身の文になります。ですが、「友達が言われた」の文では、友達に尊敬語を使ってしまうことになります。べつに友達に尊敬語を使ってもいいんですけど、本人の伝えたいことが上手く伝わりづらいです。ちなみに私は、「なんで友達に尊敬語使ってんの(真顔)」とかマジレスしてたんですけどね。笑

私に言い返すための第一歩として、まずはそういった日常会話の文法ミスをなくそうかーという話を、母と妹でしたそうです。

そして、妹はその日勉強した知識を私に話し始めました。

さあ、JS6(普通の公立小)が理解した単文、複文、重文の内容とはどんなものなんでしょうか。そして、悔しさをばねに勉強を始めた妹に対して、私は姉としての威厳を保てるのでしょうか?次回に続く

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正義の女神Part 3

みなさんこんばんは。ゆでたまごです。

GWももうすぐ終わりですが、満喫していますか?私は今日高校時代の友達と原宿に行ってきました。お洒落なお店に連れて行って貰いましたー❤️

久しぶりの再会で、あっという間に時間が過ぎていきました。

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 見て頂きありがとうございます(笑)

 

ではぼちぼち前回の続きに入りますか、、。

正義の女神に目隠しは必要か?というクイズをもう一度考えて頂けたのなら幸いです。前回は知っていることをあえて隠すことで、公平な判断ができるという考えをご紹介しました。古代ギリシャの人々が一生懸命考えて導いただけあって、何千年も後になっても、理にかなっているなぁと思います。

 

でも、この講義を聞いて、「せっかく持っている自分自身の感覚なのだから、センサーとして活かしたい」という意見も出ていました。確かに、そうですね。

 

『正義のアイディア』を著したインドの経済学者、アマルティア・セン(Amartya Sen、1933年11月3日 - )は、女神の目隠しを外すべきだと主張しています。彼が重視しているのは、不偏性:impartiality 。判断をする時は、存在する全ての選択肢に同じウェイトを与えて判断するべきだ。そのために、私達はできるだけ多くの情報を見なければならない、そう教授は説明してくれました。前回のジョン・ロールズとは真逆の考えですね。センの理論のほうがジョン・ロールズのものよりもずっと難しいと教授は言っていました。なぜなら、できるだけ多くの情報をまっすぐと見つめなければならないし、しかもそのうえ、沢山の情報を元に”公平な”判断をしなければならないからです。

また、教授はもう一つのセンの考えを紹介してくれました。センは、”自存それ自体の平等化”を促進するために、世界中の教育水準の引き上げを唱えているそうです。もちろん体や、精神や、心はその人固有のもので取り替えることはできません。決して違う人を画一的に扱うということではありませんが、教育は、体、精神、心それら自体に働きかけます。教育は、self respectのありようを変えるものだから、教師の労働環境の改善や、教室をきちんと設けることなどによって、教育の質を向上させるべきだと言っているそうです。

センについてのこの二つの話題は、私にはまだ関連が良く理解できませんでした。特に、教育についての話は、読者の方々も文章のつながりが悪くて読みづらいとお思いになっていることと思います。大学1年生ですから、まだまだ未熟ですね。

 

3回にわたり連載させていただきました正義の女神シリーズも、これで最後となりました。「正義の女神に目隠しは必要か?」という問いに対して、まったく異なる2つの考えをご紹介いたしました。どちらも頭のいい人が考えただけあって、十分妥当性があったのではないでしょうか。ずいぶんうまくまとめられない、わかりづらい箇所も多かったと思いますが、それは私自身があまりよく理解できていない箇所です。これからいろいろな経験をしていくうえで、今回の話とつながるところがあれば、また追って投稿させていただきます。最後までお読みいただき、ありがとうございました。